東日本大震災 復興視察(防災地理部2023)


7/25(火) 移動・東京大学で東日本大震災の復興に関するレクチャー

7/26(水)
8:30-9:30仙台市荒浜震災遺構の見学
10:30-11:30女川町女川駅前のまちづくりの見学
12:00-13:30石巻市雄勝津波防潮堤とまちづくりの見学
13:45-15:15旧大川小学校震災遺構の見学、避難行動の追体験
15:30-17:00石巻市北上町ウィーアーワン北上代表・佐藤さんからのレクチャー
気仙沼市宿泊
7/27(木)
8:00-9:45気仙沼市気仙沼港の復興まちづくりの見学
10:00-12:00気仙沼市伝承館
杉ノ下地区
伝承館の見学、杉ノ下地区の見学
12:40-14:30陸前高田市津波伝承館の見学、復興祈念公園の見学
14:45-16:45陸前高田市陸前高田市防災課の方から復興まちづくりのレクチャー
一関市宿泊
7/28(金)
8:15-10:15一関市平泉の見学
11:15-12:45南三陸町復興祈念公園の見学

南宇和高校による研修ブログはこちら

宇和島東高校による研修ブログはこちら

仙台市荒浜 震災遺構の見学


平野部の復興計画

仙台平野は非常に広大で、近くに逃げる山もありません。東日本大震災時には、嵩上げされた仙台東部道路が二重の堤防として内陸部の浸水を防いだり、避難場所として活用されたりしました。 移動中には、道路や鉄道の構造物に津波防御の役割も担わせる「多重防御」の考え方を学びました。(写真上段右)

仙台市荒浜地区では津波により海岸近くの集落が壊滅的な被害を受けました。現在は震災遺構として住居の基礎が残されていますが、震災前の街の影はありません。 津波の恐ろしさを実感するとともに、人が移り災害危険区域として残された低地の使われ方に課題を感じました。

女川町 復興まちづくり


海が見える復興まちづくり

JR女川駅前に立つと、海に向かってシンボルロードが真っ直ぐ伸びています(写真上段左)。 女川町は津波により壊滅的な被害を受け、白紙からのまちづくりを迫られましたが、中心部の一体的な区画整理事業により、新しい街の姿を創り出しています。 海側から山に向かって、公園・漁港施設、商業地、公共施設、居住地と配置し、漁業を生業とする地域の意向を踏まえて、どのエリアからも海が見えるまちづくりです。 商業地から見ると、かなり高い位置に住宅があります(写真下段左)。 国道398号の下に「隠された」防潮堤の山側の土地を盛り土し市街地から海を望めること、シャッター通り化を避けるため、町が商業施設を所有し店舗を貸し出す方式をとっていることなどを学びました。

また、震災遺構・旧女川交番周辺の展示では、復興後の女川町で生きる若い世代のため「還暦以上は口を出さず」の掛け声のもと、若い世代の活力と意見が復興まちづくりに取り入れられたことを学びました。

石巻市雄勝 津波防潮堤とまちづくり


被災後に地域で守りたいものは何か

美しい漁村、雄勝の沿岸には高さ9.7mの巨大な防潮堤が全長3kmに渡って続きます。 海沿いの道路と、災害危険区域に指定された人の住まない低地部を守るための防潮堤を登りました。 震災後は、県・市・支所・住民の間で、道路の移設、防潮堤の建設、嵩上げによる現地再建か高台移転かで大きく考えが割れました。 道路を高台移転し、その周りに住宅地を造成するプランは、防潮堤の高さを抑えられるものの、道路の移転費用が復興予算で出ないことから断念し、高台移転+低地の道路と漁業施設を守るための防潮堤という計画になりました。 岩手県では防潮堤高さの決定に地元の意見を聞き入れたり、気仙沼市大谷海岸では防潮堤のセットバックと国道の嵩上げの好事例もありますが、雄勝では早急に復興しないと人口減少を抑えられないという危機感のもと、熟議が尽くされなかったという見方もあります。 発災前から復興の事例を学び、住民と行政が議論を重ねて守りたいものを共有し、まちの復興像を描いておくことの重要性を学びました。

旧大川小学校


のこされた避難の課題

南宇和高校の先生から旧大川小学校の避難の説明がありました。 旧北上川を遡上し四方から襲った津波は校舎を破壊し、コンクリートの渡り廊下を倒すほどの威力でした。 校庭に集められた児童は校庭から数十mの位置にある裏山に登るか、川近くの微高地に向かうかで、50分の時間を使った後、微高地への避難を開始した直後に津波にのみこまれました。 山も何らかの危険を示していた可能性はありますが、結果的には児童74名が犠牲になる悲劇となりました。 裏山がもし避難場所として安全に整備・指定されていれば、誰かが高台で川の様子を見ていれば。その場で一人一人が50分の間で自分ならどう避難するかを追体験し、自らの未来を自らで拓く重要性を学びました。 「山は命を守らない。山に登るという行動が命を守る」という言葉を忘れてはいけないと思いました。

石巻市北上町 ウィーアーワン北上の取り組み


人の住めない低地を杜に戻す

旧北上川沿いを走ると、災害危険区域に指定された広大な低地部が眼前に広がります。その活用は被災地全体の大きな課題です。 ウィーアーワン北上代表の佐藤尚美さんは、かつての集落跡で災害危険区域に指定された低地の移転元地を住民主体で森に戻す活動を行なっています。 他から土を持ってくるのではなく、地域の資源を生かして、適正な規模で自分たちのできることから始めています。

石巻市北上町は、津波により行政職員の半分が犠牲になったこともあり、住民主体の自分ごととしての復興に特徴があるといいます。 まちづくりのリーダーを女性にする、高台移転地で住む場所は全員が不満を持たないような希望表明&調整方式、高齢者の支え合い型の復興公営住宅など、住民の提案から復興の好事例が生まれました。 住民主体の反対に位置する事例として、多くの施設では、整備後の住民による施設の使われ方が考えられていないので、作ったものの誰も使わない施設がたくさんできるという問題があります。 これに対しても、市からハード計画が上がってくるたびに、ソフト面を含めた住民意向を反映させるための場づくりを行ってきました。

しかし、このような北上の高台移転の合意形成は成功例と言われますが、高台移転自体が成功だったかはわからない、と佐藤さんは言います。 自分たちの世代のことだけ考えて、10個の小さな集落を作ってしまったが、もっと話し合って数を減らす選択肢もあったのではないか。 津波にたくさん襲われてきた歴史を無視して、過去から学ぶことなく自分たちのことだけを考えてこの北上を作ってしまった。 事前復興で、冷静なうちに未来の見たい姿を考えてほしい、と伝えられました。

佐藤さんはいま、移転元地の荒地を杜に戻す活動を行なっています。 先祖代々の土地が荒地になったまま、将来世代に引き継がれる現状を変えるため、土壌環境の地道な改善から取り組みを始めています。 元々は自分の見たい景色を作る、という思いから始めた活動でしたが、それが地域の人にも伝播して、差し木をしたり東屋を作ったり思い思いの活動に発展していると言います。 まちづくりは特別な人が特別なことをするのではなく、誰かのやりたいという思いにみんなが関わっていく新しい日常づくりであることを、育ち始めた杜から学びました。

気仙沼市 復興まちづくり


平常時と災害時のバランス

写真の上段2枚は、気仙沼内湾地区のムカエル・ウマレルを海側から撮影した写真です。 建築と地面の間は防潮堤ですが、階段や芝生、ウッドデッキにより巧みに隠されています。 気仙沼では「海と共に生きる」ことを選択し、防潮堤が街と海を隔てないようにさまざまな工夫がなされていました。 下段左の写真はフラップゲート式防潮堤で、防潮堤の上部1mは普段は折り畳まれていますが、津波が入ると水圧により板状のフラップゲートが立ち上がり、防潮堤として機能します。 これにより、普段は子どもの目線から気仙沼の海を感じられる一方で、津波襲来時にはT.P. +5.1mの防潮堤が街を守ります。 堤防高を低くすると災害危険区域の範囲が広がるので街の賑わいは失われる可能性がありますが、堤防が高すぎると気仙沼の海が感じられません。 津波とまちづくりのバランスの中で、工夫を凝らしながら生まれた海沿いのデザインの好事例と感じました。

一方で、津波高が他の地域と比べて高くないことがこのようなデザインを可能にした一面があります。 被害が甚大でハード整備によりどうしても命を守らなければいけない土地と、ある程度の防潮堤整備で被害を抑えられる土地での地域デザインは異なると考えられます。 市街地の被害の大きさと街の将来像を見極めながら、防潮堤と海との関係、居住地の移転、元の市街地の土地利用などの間のバランスを熟議によって方向づける作業が事前復興において必要です。

下段右は、民間震災遺構の「命のらせん階段」です。この建物の立つ内の脇地区は、高台の避難場所まで遠くすぐには逃げられない地域のため、住民の避難を目的として家主が自宅の屋上に避難階段を取り付けました。 地域住民の方と3回ほど避難訓練を行った結果、東日本大震災では約30名の住民が屋上で大津波から命を守ることができました。

気仙沼市伝承館、杉ノ下地区


より遠くへ、より高台へ

気仙沼市伝承館となっている旧気仙沼向洋高校を見学しました。ズタズタになった教室から津波の威力が伝わってきます。 気仙沼向洋高校の生徒は、地震発生からわずか5分後に率先して避難行動を開始し、途中で情報を得ながら、高い場所へ高い場所へと全員で避難を繰り返しました。 その結果、校内にいた生徒は全員が安全な場所に避難することができましたが、当初避難場所として想定していた寺は津波により多大な被害を受けました。 避難場所に避難して終わりではなく、少しでも高い場所を目指すことの重要性を学びました。

その旧気仙沼向洋高校の屋上から、海側を見ると杉ノ下地区の海抜11mの高台が見えます。 杉ノ下高台は、明治三陸地震津波で浸水しなかったこともあり、市の指定避難場所に指定されていましたが、東日本大震災による高さ13mの津波にのみ込まれ、約60名の方が命を落としました。 住民と何度もワークショップを重ね、防災意識の高い地区でしたが、東日本大震災は事前に想定されていた津波高さを大きく超えました。 下段右の写真は杉ノ下高台からの景色です。 陸前高田市など他の地域でも避難場所として指定されていた場所が被災したケースがありました。 結果的に、何が足りていなかったのかを考えさせられました。 気仙沼向洋高校、杉ノ下高台から学んだ、「ハザードマップは上限ではない」ということ、より高い場所へ避難を続けろという教訓を無駄にしてはいけないと感じました。

陸前高田市 津波伝承館、復興祈念公園


防潮堤の上から見渡す街の再生

陸前高田市の高田松原津波復興祈念公園は、震災前から市民に親しまれていた高田松原を再生したいという市民の思いに後押しされ、震災後に慰霊・伝承の地として整備されました。 震災前に約7万本あった松は奇跡の一本松を残してなぎ倒されましたが、2017年から始まった植樹により松原が育っていました。 松原の奥には、砂浜も再生され、2021年には11年ぶりの海開きを実施しています。訪れた際には海水浴客で賑わっており、陸前高田の風景が回復された喜びを感じました。

高さ12.5mの防潮堤の上に立ち、内陸側を見ると、陸前高田がリアス部にしては広大な低地部を持つことがわかります。 昭和三陸津波後の低平地での駅開業と周辺の区画整理事業、国道45号バイパスの開通により低平地にまちが引き出されたことが、被害拡大の要因の一つとして挙げられています。 復興にあたって、西側の今泉地区では高台の大規模な造成が行われ(写真上段右奥)、集落は高台に移転しました。 造成による土は、東側の高田地区のかさ上げ盛り土として利用され、市街地は約10m嵩上げされた上に、新しく建設されました(写真下段右奥)。 多くの犠牲者が出た陸前高田では、もう絶対誰も死なせない、という強い思いがまちづくりに反映されました。

陸前高田市 復興まちづくりのレクチャー


陸前高田市から学ぶ

陸前高田市防災課の中村様から、陸前高田の被害と復興についてお話を伺いました。 陸前高田市の被害の特異な点は、役場が被災し約400名の職員のうち100名超が命を落としたことだと言います。 地域をよく知る職員が命を落とし復興に際して大きな痛手となったため、震災後は初動対応マニュアルを策定し、公的な役割を持つ人の安全の確保を重視しています。 行政にとどまらず、学校・病院・警察・消防などの公的機能の継続は、これから災害が予想されているあらゆる地域で真剣に考えなくてはいけない問題だと思いました。

復興計画では、当初絶対的な安全を求めて15mの防潮堤を県に求めたが、レベル1津波対策の限界である12.5mと決定されました。 そのため、レベル2津波でも浸水しないように市街地の嵩上げが計画されましたが、防潮堤が壊れる+満潮想定で津波シミュレーションを再度実行すると、嵩上げ市街地でさえも浸水してしまいます。 では、山の上に住めばいいのか、というと市街地を作れる場所はない。 復興や事前復興において問題となるのは、想定最大の災害による被害予想と、平常時の生活の利便性のバランスをどうとるかだと言います。 これに対して正解はないが熟議は尽くさなくてはならない、と述べられました。

加えて、制度面の苦労についてもお聞きしました。区画整理事業では地権者全員の承諾が必要ですが、そのために日本全国を飛び回ったこと。 最終的には、地権者全員の承諾がなくても着工できるとする方針が国土交通省から示されたものの、平常時の制度を災害時に適用する際により柔軟な運用が災害前からあれば、より早く事業は進んだでしょう。 また、復興には莫大な予算がつくが、事前復興にはなかなか予算がつかないという問題意識も共有されました。

陸前高田市では、復興時に最大で2010年度比11.4倍になった予算が、現在では震災前に戻ってきており、これから本当に自前の予算で持続可能にやっていけるかが正念場と言います。 そのためには、ハードの整備が一段楽し、公共交通や人口減少対策などのソフトの施策が重要になってくるとのことです。