第16回復興デザイン研究会の報告
第16回復興デザイン研究会「難民と地元住民が創出する共生的な関係 ーケニア・カクマ難民キャンプにおける共存の技法ーを開催した。その内容を報告する。
開催趣旨:窪田 亜矢(復興デザイン研究体 特任教授)
復興デザイン研究体では、困難な状況への対処を、根底の研究テーマとして掲げています。難民キャンプはとりわけ厳しい状況にあり、復興デザイン研究会でもすでに二度取り上げてきました。今回は、難民キャンプとホスト・コミュニティという視点から、アフリカ研究の大家でいらっしゃる人類学者の太田至先生(京都大学名誉教授)をお招きしました。1978年からカクマに住み始めた太田先生にとっては、難民キャンプの設立も、長い時間軸の中での一つの出来事であり、ホスト・コミュニティ側から難民キャンプについてご講義いただきます。
「難民と地元住民が創出する共生的な関係」
太田至(元京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・教授)
フィールドとの付き合い
ケニアのカクマのフィールドワークを40年間行っている。語学習得の難しさから、人類学者は1つの場所でずっと研究を続けることが多い。その分蛸壺的になってしまうが、40年追っていると小さな子供が結婚し、家庭を持つ過程を追うことができる。1992年の難民キャンプが、成立当初はここまで大きな影響を与えるとは思っていなかった。地元社会の成立過程を追ってきたが、以降は地元住民とキャンプの付き合い方についても追い続けている。
アフリカのイメージ
メディアでは、アフリカに関して豊かな自然や相互扶助の文化といったポジティブなイメージと飢饉や紛争といったネガティブなイメージの両者が発信されている。いずれにせよ、アフリカが遠い場所であるという認識を我々の多くが共有している。中国の好況の影響で、レアメタルが豊富に埋蔵されているサブサハラの経済成長は著しい。日本もアフリカを開発支援の対象ではなく、成長のパートナーと認識している。アフリカは歴史的に地下資源や奴隷など資源の供給地であり、我々のアフリカへの「差別的、植民地主義的な」眼差しは変わっていない。東西冷戦が終わってから、アフリカでは1990年代以降、内戦や民族紛争が多発した。現在は、テロやゼノフォビア、一般市民の間での激しい暴力行為が行われるようになり、人間関係が疲弊、社会が解体の危機に陥っている。背景として、政治家が民族の違いを道具に用いている。例えば、2007-08年にケニアで、ポスト・エレクション・バイオレンスが発生し、多くの人々が亡くなった。
世界とアフリカの関係
国連による軍事的介入、経済制裁、停戦・和平協定の締結支援を試みた国際刑事裁判所による司法介入、NGOによる働きかけも見られた。しかし国連に所属していたJane Bouldenによると、そうした試みの殆どは失敗に終わったという。介入や支援は、民主主義、人権思想、市場経済などの主流の試み、この500年ぐらいに西洋で発明された制度、規範、価値観に基づいている。主流の試みがある程度ローカライズされた形でそれぞれの地域に根付いていくとよいという立場で(太田先生は)考えているが、アフリカへの浸透にあたっては、文明化の使命のような意図が見え隠れする。
介入は「目に見える成果があがる」と判断される分野に集中した。具体的には法整備、貧困削減などである。一方、アフリカの隣人同士の和解や社会的修復の実現は当事者の努力に委ねられた。アンチテーゼとして、長老会議、村落法廷、相互扶助の慣習などアフリカの伝統を重視する立場もある。しかし内在的で不変な伝統が存在すると考えること、すなわち、アフリカの伝統を実体化、固定化、ロマン化することは回避すべきである。アフリカはどんどん変わっている。伝統を不変とみなす立場は主流の試みの決めつけの発想と同根である。
「アフリカ潜在力プロジェクト」研究
アフリカ潜在力プロジェクト(以下、PJ)で、2011年から2015年の第一段階では紛争と共生を取り扱った。16年から20年が第2段階であり、アフリカが直面する困難全体を対象とし、獲得した知見をアフリカのみならず人類の未来に活用することを目指している。PJでは以下の二つの態度を重視している。
1)歴史のなかで考える。西洋輸入でも伝統賛美でもないところへたどりつく必要がある。アフリカは閉鎖的な場ではなく、古来より人々は頻繁に移動して混淆してきた。
2)フィールドワークを通じ、生活世界から考える。実践的な仕組みや行動様式が必ずある、と確信を持っている。
アフリカには困難を乗り越えて状況を変革してゆく力がある。アフリカの人々がもつ主体的な能力、高いポテンシャルはこれまで無視され、周辺に追いやられてきた。無視されてきた潜在力に焦点をあてたい。アフリカに限らず、現代世界は多くの深刻な問題をかかえている。民族主義、地域主義、自国第一主義などや、環境破壊。この20年の日本で顕著なのは教育機会の不平等や非正規雇用を始めとする格差問題である。こうしたグローバルで身近な問題解決の鍵を、アフリカから学べないか。同時に、世界の新しい見方を作り出せないか。
ソマリアでのクーデター、エチオピアとスーダンでの武力による政権交代と、隣接する地域で次々と政変が起こり、1990年代前半ケニアに大量に難民が流入した。ケニアの難民キャンプはダダーブとカクマに所在し、どちらも辺境地に位置する。ケニア政府はソマリアの過激派組織・アル・シャバーブの温床とみなし、ダダーブを閉じようとしている。国際社会とケニアの人権派NGOは、キャンプ閉鎖に反対している。UNHCRはダダーブの縮小をもくろみ、ダダーブから出る人への資金援助を行っている。
トゥルカナの基本的特徴
トゥルカナは、トゥルカナ語を話す90万人ぐらいの民族である。直接人間が利用できないセルロースを家畜に食わせて、変換して、人間が利用するというのが乾燥地帯の牧畜の基本である。引越しの頻度が高く、京都-名古屋間に相当する150kmを1年で往復することもある。その間が、どういう岩場・泉・山・谷になっていて、誰が住んでいるかといった知識を持っている。一つの家族は二つに分かれる。老人や子供は移動しない方にいるが、(太田先生の)ホスト家族の村はそういう状況であった。たくさん雨が降ると、移動していた家族が戻ってくる。かつてヤギやウシの放牧に連れて行っていた場所が難民キャンプになった。
難民キャンプとトゥルカナの関係
キャンプでは難民が色んなビジネスをやっていて、衛星放送でセリアAの試合を見せたり、カンフー映画を見せてお金を取ることもある。トゥルカナを含むキャンプの人口は20万人を超え、乾燥地帯ではありえないほどの人口密集地域である。都市的性格は複数ある。多国籍、多言語、多民族、多宗教、多文化。人の出入りも激しく、治安も悪い。公共施設が多く建てられ、活発な経済活動が展開されている。また、国際電話を通じ、相当の額の海外送金が行われている。携帯は難民にとっても必須アイテムである。
トゥルカナは辺境地で、1963年のケニア独立後も、開発から見放されてきた。難民キャンプ誕生で多数の労働者が流入し、全く新しい社会環境が成立した。開発、空間インフラ、交易、雇用の面で地元民はキャンプの受益者であるといえる。一方、開発学者ポール・チャンバースいわく、環境破壊、土地の喪失、治安の悪化、急速な変化などで不利益を被っている。両者の意見に正当性がある。
トゥルカナと難民キャンプの緊張関係
2000年以降、干ばつで家畜を失ったトゥルカナが100km以上も離れた場所から移動してきて、難民キャンプの周辺に住みついた。大勢の難民やその支援者(異邦人)がトゥルカナの隣人として住むという状況の中で、異質な人々との関係はすんなり形成された。しかし、トゥルカナの青年がすれ違った難民に向かって「お前たちは泥棒だ!」と吐き捨てたり、女性が「みんなから離れてはいけない」と言うこともある。他にも、「木を切る、家畜を盗む、ロバを殺した、子供を殴る……」口論や暴力的な喧嘩、殺人事件が発生している。最大の衝突は2003年6月に発生し、一人のトゥルカナ男性が殺され、公衆トイレに遺体が放置されたという噂が起点だった。トゥルカナと難民の銃撃戦が1週間続き、難民9人、トゥルカナ2人が死亡した。3万人の難民がキャンプ内の警察の駐屯所に避難し、UNHCRもキャンプの一時的閉鎖も検討した。
トゥルカナと難民の相互依存関係
トゥルカナは難民のうち特定民族集団をネガティブに表象し、対立することもある一方、個人間・家族間では、親しい社会関係を結んでいる。
その代表例が薪の交易で、難民が消費する薪の3分の2はトゥルカナが提供している。トゥルカナ女性は難民に薪を売るだけで家族を養えるだけのとうもろこしの粉を得ることができる。トゥルカナの若者の間で商売熱が高まり、布やビーズを町で購入し、遠隔地まで運んで家畜と交換し、その家畜をキャンプに連れてきて売却している。ラクダを1頭売るだけでナイロビで大学を出て就職をした人の月給の約1.6倍を稼げる。家畜を買うのはソマリアの女性で、ムスリムが屠畜している。1日695000シリング=87万円の家畜(牛、ヤギ、ラクダなど)が売買され、これは31,000人の大人がウガリを食べることができる額に相当する。難民がトゥルカナを雇うケースもある。4,000-5,000人の子供が一ヶ月1000円+食事、で雇われ(住み込みと両方)、難民として登録されて配給を受けている。交易の相手はお得意さんになることが多い。
個人から家族へ、広がる親密関係
友人関係から婚姻関係、家族ぐるみの付き合いに発展することもある。Bond-friendship(モノの授受をとおした友人関係)がもともとトゥルカナにはあった。タバコの交換から家畜の交換へと至り、個人の関係は、次第に、個人間ではなく家族、親族へと広くなる。
モギラ一家の例では、妻ナカラレがキャンプにミルクを難民女性に売りにいったところ、毎日持ってきてくれと言われ、売買から物々交換へシフトした。やがて夫を連れて行って食事を出してもらい、毛布や鍋をもらって帰ってきた。難民の家族がモギラの集落にやってきてヤギを屠畜して私も肉を一緒に食べたり、持って帰ってもらった。難民キャンプでも歓待された。配給されてない砂糖を用いた紅茶やパスタというご馳走を出してくれた。
交易を担うトゥルカナ女性が難民男性と婚姻する例が多い。難民キャンプの共通語(アラビア語、南部スーダン方言やスワヒリ語)を、その違いこそ理解していなくとも、交易を通じ習得していった。
エリス(トゥルカナ男性)とスーザン(ディンカ女性)のカップルが超える民族の壁
通常は、トゥルカナの女性と難民の男性がカップルになることが多いが、これは逆の例。1999.5に知り合い、2000.9に娘ができた。2000-01はトゥルカナに住み、2002.8には難民キャンプに移った。スーザンはトゥルカナ語、エリスはアラビア語や南部スーダン方言を話しており、言語の壁を乗り越えて、社会関係を構築する能力の高さを実感した。
トゥルカナと難民は相手を異質な他者、反社会的な存在として表象しながら、生活と共存のため、同時に個人の間には緊密な社会関係を形成していた。この関係は自生的・主体的に創出されたものであり、UNHCRをはじめとする外部の難民支援者は実態をよく知らない。近年Aid based approach から self-relianceへと支援の方向性が移り変わっており、そのことを打ち出した2014.9のNY宣言は難民支援のパラダイムシフトといえる。
カテゴリーに還元されない
異民族は異なる「文化や道徳の共同体」に属していると考えられている。しかし民族間には「超えられない壁」があるわけではない。アフリカには頻繁に長距離を移動してきた歴史があり、その壁を超えたという経緯がある。ポジティブな社会関係を主体的に創出している。
この能力はどこからきているのだろうか、また、私たちの社会とはどのように違うのだろうか。
一般的に人間は、他民族の人々を均質にみなす傾向がある。そのとき自分たちも同じように一枚岩になっている。他者と向き合うとき、相手の属性を参照してしまう。私がカテゴリーに依拠してあなたと接するとき、あなたは個性を失い、不在になってしまう。難民やトゥルカナは相手を常に、私の目の前にいて顔が見える具体的な個人として接しており、カテゴリーに還元されない、ひとりの人間として扱っている。規則や制度を参照して、それに従った行動をとろうとする。自分は不満でも、組織の意思や選択に従おうとする。こうしたやり方の妥当性を支えているのは、ある種の権威であり、私たちはその権威に従ってしまう。しかし彼らは、あなたと私の外部にある第三者(規則、制度、組織)に依存せず、あなたとわたしが直接に向き合うことを出発点として社会関係を持とうとする。
カテゴリー、規制、制度、組織に依拠して、行為するのは省エネである。あなたとわたしが直接に向き合って関係をつくってゆくためには時間とエネルギーが必要である。日本ではこういう付き合いをしようという働きかけに対し、拒否することは当然の権利だと感じていて、コミュニケーションを切断してしまう。トゥルカナに名前を呼ばれた場合、無視することはできない。彼らは相手に向かって開かれた存在である。彼らの社会では、コミュニケーションを放棄せず、相手に粘り強くはたらきかけつつ、相互行為を継続し、相手もそうした働きかけに応答する。「働きかけと応答」の先に、どのようなゴールが待っているかは、相互行為のなりゆき次第で予想がつかないというしんどさもある。それでも相互行為を続けていくのはエネルギーがある。しかし当事者はそのゴールを相互に納得できるものにしようとして、コミュニケーションを接続し続けており、どちらかが負けるという関係ではない。
共存に向けたアフリカ人の能力、異なる主体に働きかけ続ける能力、カテゴリーに還元せず、不在にしない、開かれた自己でいる能力、コミュニケーションを接続し続ける能力。私たちはミクロな単位(夫婦、親友)でのみそれを発揮している。こうした他者との関係のあり方を理解し、普遍的な考え方に組み立てることを通して、アフリカの人々から学んだことを人類の未来に活かせないだろうか。
質疑応答
――2009年からケニアに行っており、とことん話し合う姿勢はケニア人によく見られた。現地で関係性が構築されているのに、なぜ難民は、トゥルカナへの悪口を続けるのか?
太田:ケニアにおける民族間のカテゴリーは強い。ケニアでは、名前がわかれば出身民族がわかる。大統領選のときなど、カテゴリーに依拠することもある。民族対決があるというのは事実。しかし作ってきたのは宗主国のイギリス。イギリスは民族を無理やり特定して(特定できない人、二世や移住者も含め)民族カテゴリーを当てはめて居住地を決めた。1963年の独立後、ジョモ・ケニヤッタ初代大統領が土地の分配などで自民族優遇政策をとった。タンザニア(イギリス旧植民地)では民族対立がケニアほど厳しくない。ニエレレ初代大統領は民族優遇政策を一切とらなかった。民族が違うからといって自動的に対立するわけではない。
――現地に行ったときに、現地で太田先生はどのように扱われるのか?
太田:トゥルカナは日本人のように外国人をとりわけ差別せず、同じように扱う。トゥルカナ語でしゃべりかけられるとトゥルカナ、とみなす考え方である。アフリカにもさまざまなスタンスの人がいるが、東アフリカ牧畜民にある程度共通して見られるメンタリティなのでは。
――両者のコンフリクトが発生するダイナミズムとは何か?トゥルカナには暴力的な組織をつくる伝統的な方法があるだろうが、難民にもあるのか?
太田:そういう組織は、両者ともあまり無い。半分嘘だろうが、スーダンで内戦が続いていたために、両親や親族から切り離されたマイナーズ(プロテクション無し)unaccompanied miners は暴力的という言説があるが、根拠はない。
――特定の難民コミュニティと他のコミュニティの貧富の差はどのように生じているのか?
太田:理由はよくわからないが、エチオピアやソマリアからの難民には資本金があり、とりわけソマリア難民には商才がある。
時間を大幅に超えて、講義と質疑応答となりました。難民とホスト・コミュニティという捉え方によって新たなカテゴリー化に終わるのではなく、個人・家族・民族など多様なレベルで多様な関係が生み出されており、それによってカテゴリー化が回避される可能性を理解しました。
太田至先生、どうもありがとうございました。
第16回復興デザイン研究会のお知らせ
東日本大震災を契機に、これまでの工学的技術を統合して、新たな復興デザイン研究を築くために、復興デザイン研究会を開催しています。
第16回は、ケニア・カクマ難民キャンプが立地するトゥルカナの現地住民がどのように巨大な難民キャンプと共存しているのか、現地住民の立場から長年研究に取り組まれている太田至先生に講演いただきます。予約は要りませんので、ご関心のある方はぜひいらしてくだい。お待ちしております。
日時: 2019年6月26日(水)17:30〜19:30
場所: 東京大学・本郷キャンパス・工学部14号館145号教室
テーマ:難民と地元住民が創出する共生的な関係
ケニア・カクマ難民キャンプにおける共存の技法
1)講演「難民と地元住民が創出する共生的な関係」
太田至(元京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・教授)
2)ディスカッション
太田至✕窪田亜矢(東京大学)✕井本佐保里(日本大学)
主催:東京大学復興デザイン研究体
問い合わせ先:井本 s-imoto27@nifty.com