東日本大震災 復興視察(防災地理部2024)


7/27(土)
13:00-15:45東京大学避難・復興に関するワークショップ
茨城県日立市宿泊
7/28(日)
9:50-10:50福島県双葉町原子力災害伝承館
11:00-12:15福島県浪江町旧請戸小学校
13:15-15:00福島県浪江町浜通り地域デザインセンターなみえ
16:10-16:50宮城県名取市閖上地区の見学
17:05-17:45宮城県仙台市荒浜地区の見学
宮城県石巻市宿泊
7/29(月)
8:50-9:30宮城県石巻市旧大川小学校
9:45-10:15宮城県石巻市雄勝地区の見学
10:30-12:20宮城県石巻市ウィーアーワン北上 レクチャー
13:30-14:50宮城県南三陸町さんさん商店街
15:40-17:40岩手県陸前高田市市内および津波伝承館
岩手県釜石市宿泊
7/30(火)
8:35-10:00岩手県釜石市花露辺地区の見学
10:30-12:00岩手県大槌町赤浜地区の見学

避難・復興に関するワークショップ


東北視察に行く前に考えを深める

東京大学にて、高校生と引率の高校の先生を対象として視察の事前ワークショップを行いました。

ワークショップの議題は、発災直後の避難について・中長期避難について・事前復興まちづくりについて・事後復興まちづくりについての4つであり、4つの班に分かれて議題に対する議論を行いました. 議論するにあたって,それぞれの議題に対応する実例を配布して知見を深めるとともに、自分ならどうするかを班で議論しました.

原子力災害伝承館


福島が直面した災害を学ぶ

原発災害とその後の過酷な長期避難を中心に,福島県が経験した東日本大震災の事実を学習しました. 情報に翻弄され数日間の間に避難場所を転々せざるを得なかった行政や住民の当時の記録が語られていました. この避難の影響もあり,福島県ではおよそ2300人名が災害関連死と認定されており,当時の対応が適切だったのかと考えさせられます.

旧請戸小学校


請戸小で津波の威力と避難の重要性を学ぶ

伝承館から程近くにある震災遺構・浪江町立請戸小学校を訪問しました. 津波の直撃を受けたものの建物自体は持ちこたえ,現在は津波の破壊的な威力を実感することのできる貴重な震災遺構として保存・整備されています. 原発災害に焦点が当たりがちですが,津波による被害も甚大だった福島県浜通り地域. 請戸小ではこの破壊的な被害にもかかわらず児童教員とも犠牲がなかったことで知られています. 今回の訪問ではどのような判断の結果全員が逃げ切れたのかを初日のWSも含めて考える機会となりました

続いて請戸小の児童教員が逃げた大平山を目指してみんなで徒歩避難体験を行いました. 一番最後のメンバーが到着した時には請戸小を出てから40分近くが経過しており,発震後10分程度置いてから避難を開始したとすると津波に飲まれてしまうという結果になりました. 各地域の津波到達時刻や避難場所までの所要時間をシビアに見定めて訓練を強化する必要を感じました.

浜通り地域デザインセンターなみえ


帰還者・移住者によるゼロからのまちづくり

浜通り地域デザインセンターに場所を移し,現在浪江町に住まわれている3名より浪江町の復興やまちづくりについてお話をいただきました. 浪江町には2017年以降避難指示や居住制限の解除によって徐々に住民の帰還が進んでいますが,人口は震災前の1/10程度にとどまっています. 文字通りゼロからのまちづくりを求められてきた浪江町では,帰還した元住民の方に加え移住者の方もまちづくりに参加し,お祭りやイベントを通した活気が戻りつつあります.

今後は国の研究帰還であるF-REIや浪江駅建て替えおよび駅前空間の再整備が計画されており,まちは大きく生まれ変わろうとしています. このような変化の中で「新しい街になってしまった」という受け身の姿勢ではなく自分たちが関わって積極的にまちを創っていくのだという姿勢が必要であり,計画者側にもそうした配慮が求めれることを感じました.

名取市閖上地区


名取市閖上地区の復興を学ぶ

名取市閖上地区を訪問しました。 閖上地区は、名取川沿に発展した川沿いの港町で,東日本大震災で津波により大きな被害を受けました。 閖上地区の復興では河川堤防の整備が行われ、震災後は住宅が密集していた海に特に近い地区は、非居住地区となりました。 河川堤防と同じ高さに整備した側帯上に、被災事業者が中心となって設立したまちづくり会社が商業施設を運営しており、地域の賑わいの拠点となっています. かわまちづくりの取り組みにより現在では居住人口は増えて下り、地域の活性化が進んでいます。 河川とまち、港が連携した河川整備の復興事業が見られ、地域全体の防災力と地域が主体となって災害復興や継承を行うことの重要性を再認識されました。

仙台市荒浜地区


震災遺構から復興計画と防災を学ぶ

仙台市荒浜地区を訪問しました。 荒浜は、2011年3月の東日本大震災で大きな被害を受けた地域の一つです。 東日本大震災後は、海岸に沿って建設された海岸堤防とかさ上げ道路で避難の時間を稼ぐような「多重防衛による減災」対策が行われた地域です。 震災の経験を踏まえて立案された復興計画や防災対策について学びました。 遺構の敷地内には、住宅基礎の実物が残されており、被害を受けた建物の残骸を直接見ました。 遺構の展示を通じて、震災の規模や影響、津波の脅威を実感するとともに、かつて地域にあった暮らしの記憶から当時の住民たちの苦難を感じ、記憶を継承することの大切さについて考えさせられました。

旧大川小学校


命を守る決断の教訓

大川小学校を訪問しました。 大川小学校では、津波にのみ込まれ、児童108人のうち84人、教職員は10人が犠牲となりました。 大津波への対応は考慮されておらず、津波が来ることの危険意識が欠けていたことにより、すぐ近くの裏山へ避難するという選択ができなかったと考えられます。 校庭に集まった児童や先生たちは、避難の決断で迷い、川の近くにある微高地へ向かうかで迷う直後に津波が押し寄せ、多くの命が犠牲となる悲劇が起きました。

実際に小学校の校庭から裏山に上り避難場所の状況を確認しました。 裏山が安全な避難場所として整備されていたり、一人ひとりが津波から逃げようとする行動があれば、この悲劇は避けられたかもしれないという思いが残ります。 この出来事から、自分ならどう行動したかを振り返り、命を守るためには自分自身で判断し、行動することの大切さを学びました。

石巻市雄勝地区


復興まちづくりの備えと共有の重要性

石巻市雄勝地区の防潮堤を見学しました。 震災後の復興の一環として津波防潮堤の建設とまちづくりが進められています。 津波による被害を最小限に抑え地域の安全を確保するため、海沿いの道路はそのままにして巨大な津波防潮堤の整備が行われました。 また、津波のリスクを避けるため、住宅地や公共施設を高台に移す取り組みが行われました。 これにより、再び大規模な津波が発生した場合でも、住民の安全を確保しながら、安心して暮らせるまちづくりが行われました。

雄勝の復興は、津波防潮堤を中心とした防災インフラの整備と、住民の生活再建を両立させた包括的なまちづくりが特徴です。 これにより、災害に強く、かつ住民が安心して暮らせるまちづくりを目指しています。 災害が発生する前から復興事例を学び、住民と行政が繰り返し議論することで、守りたいものを共有し、まちの復興のビジョンを事前に描いておくことの大切さを学びました。

ウィーアーワン北上の取り組み


防災集団移転にあたっての合意形成

災害危険区域に指定された石巻市北上町の13の浜は,防災集団移転をすることになりました. この移転に関わってきたウィーアーワン北上の佐藤さんより,合意形成のために行った取り組みや苦労についてお話を伺いました.

当初の移転計画に対しては地域のお母さん方から多くの反対意見がありましたが,これを機に計画作りを担う役場支所がお母さん方と一緒に計画を考えるようになりました. 住民へのヒアリングを同じ住民が行うことで不満ではなく意見を引き出せるようにすること,誰がどの区画に住むかを決めることを抽選にせず話し合いにこだわったことなどの工夫があり,結果的に住民全員が8割以上の納得感を持てたとのことです. また地域づくりアンケートを中学生以上の全員1人1人に対して実施したことで,埋もれてしまいやすい10代20代など若年層の切実な意見を抽出できたともおっしゃっていました. また同時に,自分たちのことは考えられたがまちの将来のことを考えた復興ができず,例えば公園を多く作ってしまうといった課題が生まれてしまったとのことです.

南三陸町


防災対策庁舎の惨状と観光拠点の賑わい

南三陸町は800名以上の方が命を落とすか今も行方不明となっています. 志津川地区の沿岸部にある震災復興祈念公園を訪れました. 公園には防災対策庁舎の遺構が残されています. 震災当時には災害対策のため53名もの職員が残り,そのうち43名の方がここで命を落としました. 多くの職員が亡くなったことが復興にも影響を与えたようです. 防災対策拠点を作る場所次第で,大きな惨状を引き起こしうることを学びました.

また公園にはさんさん商店街という観光拠点も併設されています. 訪れた際には多くの人々で賑わっており,拠点施設を含めたまちづくりが賑わい作りに重要であることを学びました.

陸前高田の復興と津波伝承館


復興事業と津波災害を学ぶ

陸前高田市は犠牲者率が3県沿岸市町村で最も高いなど甚大な被害を受けた場所です. まず今泉地区から市中心部を望み,歴史の中で市街地が低平地に広がったこと,その低平地が津波に飲み込まれてしまったこと,また嵩上げ用の土壌をベルトコンベアを使って運搬するなど同市の復興事業について学びました.

次に東日本大震災津波伝承館を訪れました. 衝撃的な展示物から被災された方の語りまでゆっくり見学し,津波災害とそこから得られた教訓についてじっくり学ぶことができました.

釜石市花露辺地区


防潮堤を作らなかった復興まちづくり

釜石市唐丹町花露辺地区を訪問しました。 花露辺は、漁業を生業としている住民が多く、住民たちの意見をもとに防潮堤を作らないという判断をした地域です。 その代わりにかさ上げされた道路より上部に斜面に沿って住宅が並んでいて、最上部には災害公営住宅が作られました。 防潮堤がないことによって、住んでいる家から海が綺麗に見えました。

また、その日に獲れたウニを5,6人の住民が集まり殻剥きを行っているという漁業集落の風景を見て、普段からの住民同士の結びつきの強さを感じました。 規模が小さい集落であり、漁業などを通して災害前から強いコミュニティがあったことから住民の意見がまとまりやすく、防潮堤の判断など住民主体の復興が上手くいった地域と感じました。

大槌町赤浜地区


事前に復興を考えておく重要性を学ぶ

大槌町赤浜地区を訪問しました。 赤浜でも自由にまちを歩きましたが,偶然大槌町中央公民館赤浜分館に訪れた際に中にいた住民の方から復興について伺うことができました。 赤浜では、過去に大きな津波があまり発生していないこと・東日本大震災の直前に出た大津波警報の際にそこまで高い津波が来なかったことから、地区の1割ほどの人が津波によって亡くなってしまったそうです。

復興は、東日本大震災時の津波より高い場所に建物を作るという方針で行われました。 地域の人が集まって住むことができる大きな土地を確保しようとしたものの、地権者がわからなかったことから開発できませんでした。 また,早く確保できた土地から建物を作らざるを得ず,結局集落は分散してしまいました。 発災前から復興の際にどこに建物を建てるかを決めておいたり、その場所の地権者との交渉を行ったりするなど、事前に住民や行政が考えておくことの重要性を学びました。