中心の外をつくる -花園町通りの竣工-

羽藤 英二

▲7年かかって今週末やっと竣工します.みなさんホントにおつかれまでした.

はじめに

どんな専門家も、まちの拠点や中心をつくりたがるが,中心をつくる計画の殆ど は失敗する.中心の外との間の「流れ」の釣り合いを設計することが難しいから だ.建築の構造計算をする職能はあっても,密度と配置で決まる都市の水平方向 の力(流れ)の向きと量をちゃんと設計できる職能はいまだ確立しているとは云 いがたい. 松山市は陸上競技場や市民プール,動物園を90年代頃から郊外に移転させている. これらの施設は、ひとつひとつをとれば、どれもまちなかの中心施設ではなかっ たが,田圃ばかりだった郊外への移転が(相次いだことで)松山市およびその近 郊の施設配置と中心をめぐる「流れ」の釣り合いを少しづつ変えていった. 当時、競輪場の移転は市民から歓迎されたし、まちなかの子供向けの施設の郊外 移転も車社会を考えればそれほど反対はなかった。いずれの施設も都市に欠かざ る中心そのものとは考えられていなかったこともあっただろう.結果として、堀 之内は静穏になったし,家族連れにしてみれば,郊外に施設が移転したことで, クルマで訪れやすくなった. 56号バイパスなどの放射道路と環状線が整備され、沿道商業施設の密度は高くな る。一方まちなかでは,市営プールや子供の城が移転したことで、(町の中心の ひとつとして認識されている)市駅から歩いて友達とプールに通った花園町通り から子供たちの姿はなくなった.銀天街から大街道商店街近傍の空地になった土 地は手っ取り早い収益確保のための駐車場に姿を変えた.市駅や城山といったま ちの中心そのものは変わらなかったが,まちの中心の外の活動は駐車場と店舗を 往復するだけの空間へ転化し,滞在時間は短くなり,アクティビティチェインは 単純化した.(都市に詳しいという専門家によって)大店法は改正され,市境の 向こうに大型ショッピングセンターが出来た.ネットによる小売の集積はさらに 巨大だ.情報によって行動は粒子化し,地理的文脈を継承してきた空間は解体さ れつつある. 都市の中心とは何か?中心とは様々な流動の釣り合いを取る衝点のようなもので はないか.むしろ中心と中心から外れた場所との間に生じている交通パターンの 性質に注意を払うべきではないか。建築と建築の間を人は行き交う。間を行き交 うことで有機的な感覚や,呼応するさまざまなまちの機能と他者の介在がうまれ る.中心からすこし外れた場所に丁寧に目を向ける.アスファルトをひっぺがし てみる.木を植えて緑陰をつくれば,小さな人だまりがうまれるだろう.近隣の 感覚のある道路が連鎖して、静かな奥へつながっていく.まちのバランスを取り 戻すために、中心とその外を結ぶ通りや,小さな広場を少しづつつくっていく. 中心の外をつくる.そういうイメージが頭に浮かんだ.

クルマの通らない道路は可能か

私たちは,07年頃から市の総合交通戦略をつくりはじめた.配分計算と人口シナ リオ作成を繰返し行い,中心の近傍にまとまりのある多様な交通パターンを再生 するために,まちなかに住む人を少しづつ増やしていくこと,地域それぞれの中 心とその外との間に、候補となるいくつかの敷地と道路を抽出した. 花園町通りはそのなかのひとつで,松山の中心といえる市駅の駅前から松山城下 の堀の内を結ぶ幅員37m延長約400m、中央には路面電車が走る6車線道路だった. 計画にあたって,まず第一に,車のためにつくられた道路を遅い交通のための空 間にすること,第二に,単なる道路整備ではなく,各種の催しに適応できるよう な空間にするということ、これらが私たちの計画の出発点となった. 花園町通りの東側には古くから軒を連ねていた商店が空き店舗化しおり,西側は 街区が大きくマンションや専門学校など複数が統合されて再開発された建物が目 立っていた.店舗の新陳代謝がなかなか進まないまま高齢化が進展し,自動車交 通量は30年前に比べて半減するなど減少の一途をたどっていた.交通量が減り役 割を果たすことのなくなった広幅員道路の問題は,それほど明確に認識されてい ないように見えた。私たちは、交通量調査とシミュレーションに基づいて、道路 を6車線から2車線にすることを決断した。 幸い私たちは,小さなものではあったけれど,ロープウエイ通りなどで,道路空 間の再配分によるものを試みて,断面改良による交通制御や,地域の人々が参加 しながら車の速度を落とすような道路づくりを進めていく−これは不幸なことだ と云わなければならないが−軋轢のなかで全体としてうまく進めてゆくことを経 験していたので,思い切った道路空間の再配分の試みにふんぎることができた. 私たちは,市長をリーダーとする「まちづくり懇談会」を設置し,都市マスター プラン,総合交通戦略などの議論を行いいつつ,花園町通りのリノベーションは その中の重点整備プロジェクトとして位置づけられることになった.2012年4月 からは,月1回のペースで花園町通りの空間改変事業懇談会を開き,市,警察, 専門家,商店街役員,交通事業者,市駅前役員の間で使い方に関する決定協議が 行われた.さらに地元住民を中心としたワークショップを月1回のペースで並行 して開催することにした。

フレキシブルな道路へ

社会実験に多くの住民に参加してもらうため,昼と夜の2部制で、顔を付き合わ せて議論をはじめたけれど,私たちの提案に対して、反対意見が相次いだ.とに かく住民の利用ニーズに一致しなかった.確かに、実際には,歳をとった人であ れば、車で玄関から送り迎えしてほしいだろうし、庭のように使っていた街路を いきなり公共空間だと言われても、専門家の考える街路の新たな使い方は、地元 の人たちには理解し難いように見えた.歩道を拡幅してデッキや芝生を設えるこ とで食事や佇みといった滞留や,イベントの場として活用するデッキを配置した 提案を行っていたが,気付かないうちに活動内容や使い方をこちらが限定して押 し付けていたのもしれない.私たちは,思い切って一旦道路断面を全面フラット 化する提案へとプラン変更することにした。 路面電車から軒先の歩道まで一気通貫するフラットな道路で境界をなくし,車の 交通機能を保持したまま,(よくいえば)市民が望むさまざまな使い方へ対応可 能な(悪く言えば)いささかルーズな設計提案に切り替え,2012年7月の整備検 討WSで議論を行った.反対する声はそれでもまだ多かったが,市民の目の色が変 わったのがわかった.そこからは,一軒一軒(ドブ板で)説明に回って歩き,合 意の取れたところから沿道建築と一体となった活動プログラムを検討し,対応で きる道路空間へと細かな設計変更を繰り返した. 南堀端に抜ける交差点の交通シミュレーションで道路混雑が起きないことを確認 できていたこと,空間再配分に対して積極的な沿道に住む若い世代に主体的に社 会実験に参加してもらったことも大きかった.正岡子規の生家前に庭のような空 間を設けたり,駐輪場は違法駐輪が出ないように、分散型にして再配置した上で、 裏に設置した新たな駐輪施設を用意するといった面的な交通空間の設計も新たな 提案として取り込まれることとなった。 ▲いろんな世代の人々に議論に参加してもらい,本当にありがとうございました. 社会実験を行ったことで,屋台の営業時間にはNoが突きつけられたが、路上では 子供たちが勝手にキャッチボールを始めていた。道路がフラットであるほど,利 用方法はフレキシブルになる.同じような活動を望むのではなく,自分たちで道 路の使い方をどんどん提案し変えていくような活動が起こること,そのために 「私」と「公」が混在するような道路の実現に期待したい. 計画から設計・建設を手伝ってくれた設計領域,復建調査設計,南雲氏,野原氏, 片岡氏,小野氏,地元の建設会社諸氏,現場の指揮をとってくれた福本氏,石井 氏,白石氏,林氏,大政氏以下の課員の方々には特に感謝したい.彼らの経験と 熱意は,工事を進捗させるのに充分優れたものであった.最後に,充分な寛容さ をもって,この計画と建設を見守り,激しい反対が続く中,我慢強く激励してく れた松山市長 野志氏と地元商店会会長 富田氏の御厚情には,感謝に堪えないも のがあった. 道路は,多くの人たちの相互信頼と協力によってできてゆくものである.無理解 な協力者をもつことは不幸なことである.そのようなとき,相互の論議につかれ 果てると,つい,協力者をだましだまし進めなければならないようなことがよく あるものである.また協力者のあいだに意思の疎通を欠くようなとき,議論が, つねに見事に開花するとは限らない.市民や計画者や設計者,施工者の間の議論 も,敵,味方の関係におしやられる場合がままあるものである.そこにはおのづ からの分担と責任はあるのだが,相互信頼を欠いた敵,味方の関係からは,見事 な結実を期待することはできない.多くの場合,こうしてつくられた道路を使用 し,利用するものとの間の問題は,さらに複雑である.しかしそれによく耐えて, はじめて,中心のすこし外側で役割を喪っていた道路は再び生命をもつものとな る. 道路は,このような社会的な結実なのである.私たちがつくったこの道路は,尚 まだ幾多の欠点を持っている.にもかかわらず,なにか,例えばあの日みたキャッ チボールをしていたこどもたちにとって,この道路が新たな居場所となるに値す るものとなったなら,それは,これら多くの方々の協力の賜物である.本当にあ りがとうございました. (2017年9月20日,研究室にて)