もう一つの人だまりをつくる -道後温泉別館飛鳥乃湯-

羽藤 英二

▲ 完成間近です.

都市の起源

「都市の起源は黒曜石である」 ジェーンジェイコブズは黒曜石を使って都市論を展開した.道後温泉の起源は, 道後平野と傾斜地の際(きわ)の推定断層から自噴していた湯泉である.黒曜石 と同様,天然資源である温泉の噴出が,道後を生み出した.温泉は、様々なもの を引き寄せる。同行二人の札をかけたお遍路さんが歩く距離は一日に30km.日が 落ちるまでに三津浜の大山寺札所まで足を伸ばすには遠かったから,道中休息を とるために遍路宿が自然した.源泉を抜けて大山寺に向かう動線上に、黒曜市が 如く湯治場が自然していくこととなった. 戦国期の村上水軍から江戸期の松平氏へ、温泉経営は本格化する。武士・僧侶向 けの一の湯,一般男・女向けの二の湯と三の湯,遍路客向けの無銭湯である養生 湯,馬が入る馬湯など様々な湯屋が、社会階層毎に配置され、遍路道沿いの湯の 町はゆっくりと発展していく.明治期になって、鉄道網の取り込みによって道後 は大きく発展した後,モータリゼーションの流れに乗り,大規模建築が源泉を取 り込むことで、内湯化が進行する.町の魅力は徐々に小さくなり,入り込み客を 減らしていた. 道後温泉の空間計画に関わることになったのは,しまなみ街道の開業効果も一服 し,道後の入り込み客数の減少に歯止めがきかないことが明らかになり始めてい た頃だった.温泉地は団体ツアー客を相手にした業態からの転換を迫られていた ものの,長年続いてきた本館湯屋の存在を基本とした求心性の高い観光地像に対 して,新たな地域像を描きかねているように感じられた.

中心動線を切り替える.

最初に,私たちは道後温泉本館前道路(2007年竣工)の計画にかかわることにな った.当時,町の中心といえる道後温泉本館前は,温泉に入りにきた宿泊客と, 通過交通の車やタクシーがごちゃごちゃに溢れかえり、温泉町の情緒は喪われて いた.私たちは,県道と市道の付け代えを行い,歩行者動線を主に、車動線を従 とする中心動線の転換を図り,道路空間そのものを(広場のように)作り替える ことを試みた. 県道は2車線道路を確保し,町に流入していた通過交通を捌く機能を明確化した 上で,付け替えた市道は歩行者向け道路空間として,舗装石と断面構成を見直し, その再生を図ることとした.道後温泉本館湯屋が出来た同時期,地元の職人が手 鑿で削った瀬戸内産の桜御影が伊予鉄の敷石として残っていたので,桜御影石を 基本素材として,本館湯屋の鍵型道路を歩行者空間として生まれ変わらせること を試みたのだ.かつて車の走っていた道路は,歩行者中心の鍵型道路として生ま れ変わり,ゆったりと歩いたり,写真を撮ることができるようになった.現在, 道路であるにも関わらず、広場的な様相を見せている. 次に,私たちは,本館に近い温泉町のゲートウエイにあたる温泉駅に面した放生 園前道路を一方通行化することを考えた.車交通の動線を単純化することで生ま れる道路空間の余白を歩行者に向けて開放しようとしたのだ.交通シミュレーシ ョンや歩行者の行動分析を行い,町への流入と,掃きだし口にあたる交差点の信 号現示の調整を繰り返し協議した後,幹線道である国道に影響の出ない信号現示 パターンを絞込み,地区内部の車動線の単純化と歩行者空間の拡大を目指した. 結果として、道後温泉駅前のバスターミナル近傍の道路空間を,トランジットモ ールのような公共交通志向な運用が現実的に可能となり,道後の中心とゲートウ エイ近傍を歩きやすい歩行空間につくりかえることを実現した.このようにして, 歩行者と車交通の混在解消が実現したことで,道後商店街から空き店舗がなくな るなど,回遊行動と店舗構成にも変化が起きていた.新たな公共空間となった道 路近傍の店舗が,派手派手しいパチンコ屋の看板を自ら架け替えるなど,町並み に対する自律的な変化も顕れはじめていた. ▲ 歩行者と車の行動モデルを用いた動線解析を行いました.

もうひとつの人だまりをつくる

道後の中心である本館近傍で、遅い交通の再生を目指した道路計画に取り組んだ 私たちは,その後大規模な温泉建築の構想・計画・設計に関わることになる.地 元が中心となって考えていた第三の湯構想が契機となったものだ.当時,(複数 の)歴史的温泉施設群の建設を地元は要望していた.道後において,湯屋は何度 も作り変えられている.とはいえ,そう簡単にいくつもの第三の湯が着工できる わけではない.過去そうであったように,安易な外湯建設は失敗する可能性もあ るだろう.場所はどこにするのか,規模の基準はどう考えるか,「飛鳥の湯構想」 という第三の湯建設に向けた動きが地元と行政の間で膠着状態に陥った頃,私た ちは,構想づくりに関わることになった. 私たちは,まず,道後の都市計画にまつわる旧い資料を探し始めた.道後は昭和 41年まで財産区で,独自の自治システムを有していたため,市役所にも十分な資 料は残っていなかった.何度か議論しているうちに,第二の湯である椿の湯が整 備されたとき,2階倉庫に昔の地図や,都市計画資料を放り込んでいたことがわ かったことから,私たちは,椿の湯2階に保管されていた膨大な資料の解読から, 温泉づくりをスタートさせることにした. ▲本館営業終了後,藤田氏や文建協の皆さんと深夜まで内部構造調査を行いました.

伊佐庭如矢の都市計画

江戸から明治における道後の転換は,伊佐庭如矢によって先導されたことを示す 何枚もの一次資料が発見された.遍路道沿いに形成された道後の基本構造を大き く転換させた伊佐庭の大改造計画は,その後,1944年に道後が松山市に編入され, 1966年に道後財産区が廃止されるまで,都市の基本構造として維持されたといっ ていい. 道後の町は,先に述べたように,遍路道沿いに立地した旅館群を中心になりたっ ていたが,1890年初代道後湯之町長に伊佐庭如矢が町長に就任したことでその構 造は一変する.1892年に養生湯,1894年に分割されていた湯屋を3階建ての建築 で統合した神の湯,1899年に天皇陛下に向けた霊の湯・又新殿の整備を矢継ぎ早 に行い,江戸期から受け継がれてきた温泉施設を大きく更新した.さらに伊佐庭 は三津浜から温泉客の輸送を目的とする道後鉄道を地元資本をもとに1895年に開 業させ,1911 年に道後温泉駅を竣工,鉄道とつながった都市型温泉は当時まだ 珍しく,多くの人でにぎわうことなった. 子規と漱石は,1895年から1896年という短い期間を松山で過ごした.市内から出 来たばかりの路面電車で道後を訪れたことが,1906年に漱石が新聞小説として連 載した「坊ちゃん」にも描かれている.明治から大正に向かう自由な空気感の中 で道後の町は鉄道によって大きく発展していった. その後1927年の市内電車複線化と本館南側の大衆向けの鷺の湯整備によって, 入浴客数はさらに増え,1935年の土地利用図からは,大山寺に向けた従前の遍路 道沿いの都市軸に対して,温泉駅に向けた駅前商店街が形成されていることが伺 える.道後温泉本館は玄関棟を移築し,江戸期から続いた3棟を1棟に結合し,入 浴客増加へ対応した上で,壮麗な外観に整備された. 色里や十歩離れて秋の風(子規) 湯屋建築そのものが(鉄道整備とマッチングしたことで)観光地化した反面,町 の湯としての機能も着実に根付いていた.道後に特有の斜面地形にそって遍路道 を少し歩いて,色町を抜ければ一遍上人ゆかり宝厳寺や,常信寺が美しい風景の 中に展開され,面的な回遊性と広がりを持った多様な表情を見せる温泉町が形成 されていくこととなった. ▲かつての道後しらさぎの湯の風景.多くの人々が訪れていました.

戦後“共有地の悲劇”

戦争が終わると,源泉開発が本格化する.1955 年 6-10 号源泉開発によって, 本館北側道路沿いに内湯を持つ大規模ホテルが立地する.1935年に一旅館あたり の客室数は7部屋だったものが1971年には平均17部屋に,2013年には46部屋に大 規模化が徐々に進行した.契機は内湯化だった.その結果,1948 年に道後公園 内に新温泉が開設し,大衆浴場が整備されたものの1979年には廃止される.また, 観光バスで乗り入れ可能な本館北側道路沿いに大規模なホテルは立地し,比して 遍路道沿いの規模の小さな旅館の経営が徐々に圧迫されることとなった. 1957年の売春禁止法によって,上人坂の土地利用もスナック街へ変化し,遍路道 に近い色町は徐々に消滅していく.土木技術を駆使した広幅員道路の開通と源泉 開発による内湯と旅館の大規模化立地が町の構造を大きく転換させていっ た.1971年の旅館数126軒をピークに,旅館数は減少し,2013年には僅か33軒と なっている. 個々の商いの形を時代に応じて変えていくことは、店主自身の合理的判断に基づ くものであったが,結果として遍路道と上人坂の土地利用は空白化し,温泉旅館 は内湯化と駐車場によって大規模化することとなる.新たなホテル群は,町から 閉じた建築を基本構造としたことで,道後の回遊空間はその姿を大きく変える. 内湯化は時代が求めた必然であったし,個々の商いの判断は合理的であった. しかし都市全体として見てみれば近接性の高い小規模経営ゆえに大切にされてき た共助の規範も喪われつつあった.共有地の悲劇といってよかろう. 白地図の前にたったとき,閉じられた町になりつつある道後で,つくるべき計画 は,もう一度外湯文化の再生を目指すものであるべきだと感じた.地元では,規 模を大きく,車の駐車場も十分に取れる場所に新たな第三の湯の建設を望む声が 大きかった.しかし,今までの都市の文脈と切り離した場所に,新たに建築を計 画しても,その効果は今までと同じで,限られたものになるのではないか.そも そも,地元が候補地と見込んだ場所は、本館湯屋と遍路道双方から離れており, 過去の経験に照らしたとき,建築としてうまく作って成功したとしても(豪華な 第三の湯を建設すれば,暫くは人が集まるかもしれないが)遅い交通の動線連鎖 を持続的に生み出すことは難しいように思えた. 議論が膠着状態に陥る中,東日本大震災の発生によって,本館湯屋の耐震補強工 事の声が高まり,工事中本館の代わりを務められる外湯を求める声が日増しに大 きくなった。一方,財政状況を考えると,建築費用を安く押さえることが求めら れていた. ▲ 振鷺閣の上に配された鷺をモチーフに,新湯屋の塔屋に鷺を配しました.

建築を動線から考える

建築費を安く抑えること、地域の文脈に沿った湯屋となることを条件に、もう一 度候補地を考え直すことにした.見直し作業の中で、市民が第二の湯として利用 していた椿の湯の敷地裏が,十分に活用できていない事実が浮かび上がった.椿 の湯の敷地裏は,昭和期に上人坂から移転した赤線が営業を継続している風俗街 に近く,道後に固有の斜面地と平野の際にちょうど位置していた.地元の反応は 鈍かったが,遍路道に面しており,昔からの動線の文脈を継承できること,隣接 敷地と組み合わせて使うことで新たな動線の形を生み出す可能性があると考えた. 私たちは、第二の湯である椿の湯の裏敷地を、改めて第三の湯の候補地として, 提案を行うことを決断した.内藤廣建築設計事務所に相談し,ラフな建築配置の ボリュームスタディの作業に入った.椿の湯では,閉じた中庭として扱われてい た空間を,新たな建築を旧い建築に対して隣り合わせに,コの字型に配置してみ た.すると遍路道に対して開かれた広場をつくることができることがわかった. この配置を採用すれば,遍路道を通じて隣接する本館湯屋が,歩行者空間が湯屋 を中心に取り囲むような配置をとっているのに対して,新しい湯屋が第二の湯と 一体となり、図(建築)と地(道路)をひっくり返した空間構成をとることがで きる.さまざまな動線体験が期待できるのではないかと考えた. 道後の温泉建築の構造的個性のスタディのために、営業が終了した本館湯屋に私 たちは夜遅く潜り込み、調査を行った。軒や手摺をはじめいたるところに湯玉や 鷺といった温泉を顕す様々な意匠の手が加えられていた.また,明治期に建てら れた木造建築と,昭和初期のRC構造の建物が増改築を繰り返し、複合的に全体構 造として互いを支え合って長年にわたって成立していたことも明らかとなった. 江戸期より、武士・僧侶、男、女、無銭、馬の湯と異なる社会的階層の沐浴は、 それぞれ別の小屋によって賄われてきた.明治の大改造期において、天皇陛下の ための霊の湯・又新殿を加え、(少なくとも見た目上は)一体的な空間とした建 築的展開に対して、沐浴における社会的階層の分化という慣習を、入り口を分化 させ,動線を建築の内外で、三次元的に繋ぎ合わせ,いくつもの分岐を中に設け ることで、聖俗の動線を成立させている.異なる時代の複合的な建築の接合によっ て生まれる動線がもつ質が,道後湯屋の建築空間が持つべき必須条件と考えた. 新しい湯屋に,フラットでどこからでもつながる動線と視線の交叉する場所を用 意すること.新たな共有地を地域としてその空間を開き,さまざまな人がちゃん と関与できる場所にするためにあらゆる手立てを尽くすこと.道後のような密度 の高い空間では,共助こそが実は合理的な行動原理であることを知るための場所 をもう一度作りだす必要があると感じた. とはいえ,地元からは,もっと規模が大きな湯屋をと,反対の声も大きく,会議 は紛糾した.しかし古くからある第二の湯と新たな第三の湯が隣接させることで 生まれる敷地の妙は,本館前から商店街を抜けて新たな湯屋に流れ込む動線にあ る.そしてその動線が交じり合い,街に向けてさまざまな方向へと流れ出すきっ かけの場所となるよう敷地を見立てた.私たちは粘り強く説明を行い,ようやく 実施設計が動き出した. ▲ 瀬戸内の気候の中,500年以上にわたって継承されてきた菊間瓦を用いました.

地域文化の編集装置となること

内藤氏と相談し,地元の手による設計・建設が望ましいことから,地元建築事務 所である鳳設計に実施設計をお願いすることとなった.協議を繰り返し,1階に は開放的な大浴場を配し,本館には無い露天風呂を設置すると共に,2階には, 第二の湯と第三の湯の建築が互いに向き合うことで,生み出される広場空間を見 下ろすように大広間を設けた.皇室専用とされてきた又新殿を模した浴室を観光 客向けの風呂とは別に2階に設置し,道後温泉ならではの「おもてなし」の給茶 サービスを大広間で行うことで,建築の内と外に異なる空間体験の共有と,質の 高い動線設計を考えた. 動線体験の質を高める上で,密度の高い意匠が重要と考えた.飛鳥時代から継承 されてきたとされる道後の湯文化を体現するために,地元の工芸職人の方々に協 力を仰ぎ,GK京都にお願いして,地元の手による職人の技を,湯屋空間に取り入 れることを試みた.地元で和紙づくりを長年継承してきている五十崎和紙さんに, 繊細な紙縒り和紙の製作を依頼し,何度か試作を繰り返した後に,入り口天井部 から配置することとした.紙を糸状に縒る際,和紙の原料の楮を漉きこむ技法で つくられた紙縒り和紙は,楮の絡み具合によって,半透明に映りこむ光が作用し, 様々な表情を見せるエントランスが出来上がった. 正面入り口には和釘を用いることを考えた.現代高炉で作った釘は二十年で錆び るが,和釘は,砂鉄を炭で還元し不純物の少ない純鉄を鍛造している.このため 銹が中に侵食していくことが少ない.法隆寺や薬師寺の修復に際して宮大工棟梁 西岡氏が、樹齢千年の檜には,千年持つ釘がいると述べているように,千年以上 強度を有することが法隆寺再建調査でも明らかになっていた.私たちは,松山で 和釘鍛造の鍛冶を継承している白鷹興光氏に,和釘の作成をお願いして,新湯の 入り口を飾る千年の素材として用いることにした. 一方,風呂内部は,青磁の砥部焼をタイル絵として用いることとした.他窯の磁 器と比較して頑丈で重量感があることから,ひびや欠けが入りにくいため,長年 にわたって風呂のタイル絵に用いるのに相応しいと判断した.後背の山地から産 出されている良質の陶石を現材料に,江戸中期より続く砥部焼きは,地元市民か ら親しまれた生活の陶器である.山田ひろみ氏に,霊峰石鎚山と,しまなみをモ チーフに,波の形のひとつ,ひとつ,山並みの遠景から近景までを何度も描いて いただいた. 湯屋の屋根には菊間瓦を用いた.瀬戸内気候は,小雨で温暖であることから,瓦 の乾燥を早め,瀬戸内から各地への海運が容易にできることで,菊間町の五味土 を現在料とする菊間瓦を発展させた.屋根に縦約85センチ、横75センチ、重 さ80キロの菊間瓦の本体に金焼塗装で装飾した鴟尾を配することした. 伊佐庭如矢による明治の本館の振鷺閣の上には北の空に今まさに飛びたたんとす る鷺がいる.二つの湯屋を視線で結ぶために,私たちは,新しくつくる新湯屋の 搭屋の上にもう1羽の鷺を配した. ▲ 江戸中期から地元で親しまれた続けてきた砥部焼をつかい,タイル絵を何度も描きました.

おわりに

私たちは,紆余曲折の末,温泉をつくった. 地元の職人文化の集積地として,道後温泉の新しい湯屋をそれと見立てた.結果 として,多くの地元職人のみなさんが,長い時間磨きをかけて継承してきた技を もって,湯屋づくりに取り組んでいただけたことに心から感謝したい.構想・計 画から設計・建設を手伝ってくれた内藤廣建築設計事務所諸氏,鳳設計諸氏, GK京都諸氏,石飛氏,南雲氏,原口氏,梅岡氏,藤田氏,松本氏,片岡氏,浅子 氏,門屋建設諸氏,現場の指揮をとってくれた大崎氏,中矢氏,山下氏,渡辺氏 以下の課員の方々には特に感謝したい.彼らの粘り強い姿勢は,工事を進捗させ るのに充分優れたものであった.又地元旅館組合,商店街振興組合,青年会の皆 様の支援に心より感謝する.最後に,充分な寛容さをもって,この計画を見守り, 我慢強く激励してくれた松山市長 野志氏と,さまざまな意見が飛び交うなか, 私たちの背中を押してくれた建築家 内藤氏の御指導と御厚情には,感謝に堪え ないものがあった. 歴史から離れて,都市を考えることは出来ない.一見,それまでの歴史と切り離 されたように見える計画であったとしても,時間の中で,都市の振るまいは繰り 返しており,総体としての地域には不動の構造が存在する.そうした構造を外し て空間に持続的な価値を与えることはできない.理想をいうのは簡単でも,ひと つの設計,ひとつの計画は,大きく地域の人々の暮らしに作用する.経済的合理 性を欠いた計画や,個別合理性の過度な追求は共有地の悲劇のごとく,地域の居 場所をあっという間に奪っていくだろう.私たちは何を学べているだろうか.地 元で培われてきた職人のみなさんの「手」によってつくりあげられた新たな湯屋 の眼前で,広場と道路の工事が今も続いている.旧い建築と立ち上がった建築の 間に,生まれる広場では人々の手によるさまざまな催しが計画されている.最後 まで気を抜くことなく佳き空間にしていきたい.それは,この仕事にかかわった 多くの方々の協力に応えるためでもある.本当にありがとうございました. ▲ 遍路道と広場の計画・設計に大山君や芝原君たちと取り組みました. (2017年10月2日,研究室にて)